被災地で実感、自由な援助活動はムリだったインドネシア
北スマトラ州州都メダンを12時間以上かけて、車でスマトラ島のジャングルを横断し、アチェ州南アチェ県ムッケ郡クタブロ村に到着したお話
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翌朝、クタブロ村を出発し、銃声の余韻のある街を通過し、津波で総ざらいになったブラボ市へ到着した話
の続きになります。
西アチェ県ムラボ市は2004年12月26日、スマトラ沖大地震による津波で総ざらいになった街として有名です。
被災から1カ月半のとき、筆者を含む3人は日本の皆さまからの義援金を直接、被災者に手渡しする目的でムラボ市へ向かったのでした。
ジャカルタを出発してから約60時間後、やっとムラボ市に到着。
お金を手渡ししようと被災者を探してみると・・・
援助は政府機関に預けなければいけない!?
筆者の知人のお姉さんはムラボ市の海辺に住んでいました。
お姉さんの家の家族構成は次のようなものでした。
- お姉さん
- 旦那さん(車いす生活)
- 娘
- 娘の旦那さん
- 娘夫婦の子ども1
- 娘夫婦の子ども2
合計6人が同居をしていたのですが、津波によって4人が帰らぬ人となりました。
生き残ったのは、娘の旦那さんと幼い女の子がひとりでした。
その生き残った旦那さんは、電話会社に勤めていて、その時は会社関係の被災者援助組織をコーディネイトしているということでした。
私たちは、その旦那さんのいる被災者援助基地に行き、私たちのしようとしていることを話し、協力をお願いしたのでした。
避難キャンプを紹介してほしいとお願いをしました。
すると、予想に反して彼はこう言ったのです。
「援助は政府の援助機関に預けなければいけない」
私たちが勝手に避難キャンプに入り込み、直接手渡しすることはできないということでした。
政府の「現場調整会」に行きなさいと言われたのです。
彼は援助品であろう飲料水の入った段ボール箱の山に腰をおろし「私は今日体調が悪くて、今も寒気がするのだ」とも言いました。
それもそのはず、彼だって被災者なのです。
彼も政府系の電話会社で働いてはいるけれど、政府のやり方には不満そうに見えました。
私たちジャカルタ一行は、直接手渡しできないのだったら、ジャカルタからはるばるやって来た甲斐がないという気持ちになりました。
ジャカルタにもたくさんある義捐団体に託せばよかったのです。
人々はそれぞれ、その人が信頼している義捐団体へ援助を託すものです。
私たちジャカルタ一行は人々が託した信頼を大事にしたかったので、知人の故郷を足掛かりに被災地のムラボまでやってきたのでした。
分配を自分たちで行わなければ、ちゃんと被災者の手に渡ったという確証が持てません。
義援金手渡しにこだわった私たちは、その場を離れました。
大規模キャンプ訪問をあきらめ自宅跡テントの被災者を訪問
私たちの当初の考えは、300~600人単位の大規模キャンプを訪問し、軍人にお願いして被災者に並んでもらい、ひとりひとりに手渡すいうやり方でした。
ムラボへの義捐金は30,000,000ルピアと予定し、現金を大事に持ってきていました。
300人程度であれば、ひとりあたり100,000ルピア、600人程度であれば、ひとりあたり50,000ルピアと考えていたのです。
ひとつのキャンプを訪ね、効率よく全額分配ができると想定していました。
低所得で働く軍人たちにお礼も必要になるだろうとも考えていました。
ひとりひとり被災者を探して手渡し
結局、個人個人で避難生活を送っている人を対象に援助するのは構わないだろうということになり、避難所をターゲットにするのをあきらめました。
前述の電話会社で働く彼もそれに賛成してくれました。
ぐずぐずしていると日が暮れてしまいます。
日は傾き始めているので、手早く効率よく車を走らせることを心掛け、道沿いの自宅跡でテントや仮建物生活をしている人の所で止まっては直接手渡しました。
15時半ごろから始めて18時近くまで、とにかく被災者を確認しては現金を分配しました。
中には被災者ではなく、政府の援助機関のような人もいて、「直接手渡しなんかして、政府現場調整会には報告しているのか」などと言ってきました。
しかし、そういう人を相手にしている暇はありません。
被災者のなかには、私たちが現金を手渡しすると、泣いて抱きつこうとしてくる女性もいました。
援助の手が差し伸べられたことで、自分たちが見捨てられた存在ではないことを再確認したのだと思います。
ある男性は、私たちが話しかけても聞く耳を持たず、ものを忘れた人のようにぼ~っと座り込むだけでした。
被災によるストレスで、このようになってしまったのだろうと思い、彼のポケットにお金を入れてきましたが、最後まで彼は顔を上げず、言葉もありませんでした。
100,000ルピアを234.5人の人に分配
このようにして、ムラボ市では100,000ルピアを234.5人の人に手渡ししました。
なぜ0.5人という数字が含まれるかというと、筆者の知人の姉の生き残った娘さんが同行していたのですが、彼女が「子供は50,000ルピアでいいのよ。その分たくさんの人にあげられる」と言ったことにより、子どもには半額の50,000ルピアを支給したことがあったからです。
日が暮れて、ムラボでのターゲット額を分配できなかったらどうしよう。
帰宅が真夜中になり疲労で、明日予定しているクタブロ村での義捐金分配にしわ寄せがいったらどうしよう。
筆者はそちらのほうが心配だったので、子どもでも100,000ルピアだと同行の大人たちに主張しました。
同行していた幼い子どもたちのなかには被災者も含まれていました。
彼らは、かなり疲労してぐったりとした気配でした。
最終的には、子どもでも同額を手渡しすることになりました。
さいごに
いかがだったでしょうか。
実はムラボ市に向かうルートは西ルートと東ルートの2つがあります。
当時、西ルートは破断され、車は通れない状態でした。
東ルートからのみスムーズにムラボ市へ入ることができたのです。
しかも、道は海岸沿いの1本しかありません。
筆者らはその唯一の道を通っていったのですが、ほぼ全く別の車に出会うことはありませんでした。
被災からまだ1カ月半のときだったので、インドネシア国内だけでなく、世界中の関心がまだ被災地のアチェに向けられていて、義援金を送る人が多かったのにも関わらずです。
その他の義捐物資ルートは、いったいどこを通っていたのか不思議に思いました。
車でなければヘリコプターで物資を届けていたとも考えられますが、私たちはひとつもヘリコプターを見ませんでした。